贅沢

店長のタソガレ 贅

贅沢について考えてみました。
 
先日テレビを観ていて、とても驚いたことがあります。

 

消費期限の切れる3時間も前に片付けられたコンビニのお弁当や、決められた日数を過ぎてデパートの店頭に置けなくなった、十分鮮度を保った野菜や高級果物、肉、魚が、トラックの荷台からドカドカ廃棄されていたのです。

それは毎日何トンもの量で集まり、まだまだ食べられるお惣菜もご飯も生野菜も果物も、全てが一緒になって加工され、牛や豚の飼料になっていました。
日本では毎日、トン単位で食品が捨てられている事情を知り、とてもショックでした。
飼料として再利用されているのは、本当に幸いなことです。

横浜のとあるNPO団体の方々は、期限切れのお弁当やパンやおにぎりを、協力してくださる契約コンビニから毎日貰い受け、ひと手間加えて定食にし、安く提供していらっしゃいます。
毎日そこで食事をしている方々がたくさんいました。
 
いつの頃からか「一日1ドル以下で生活している人が地球に○万人いる」というフレーズを耳にするようになりました。
1ドル以下で生活=貧しい、という図式なのですが、私はその線引きが腑に落ちません。
 
国によって為替はまちまち、日々変動すらします。
それだけだとなんとなく屁理屈のようですが、1ドル=安い、と言える国に暮らす人のおごった考え方のように思えてなりません。

私の祖国イランの実家では(もちろん都会のテヘランなどでは難しい環境ですが)、庭木に実を付ける樹が数種類あり、畑では季節毎に穀物や野菜や果物ができ、牛や羊から乳を搾りチーズなども作ります。
自給自足が成立するそこでの暮らしには、一日に1ドルなどというお金は多分かからないでしょう。

家族が暮らしていくための食材の量としては充分すぎるくらいです。
「1ドル以下で生活」に当てはまる人口はたくさんいても、買わずに済むのなら全てが必ずしも「貧しい」にイコールするわけではないということです。
本当に困窮している人々も実際にはたくさんいます。
ですが、それを1ドルで線引きするのは違うような気がします。
 
贅沢とはなんでしょう。
湯水のようにお金が使えて、高級車に乗り大きな家に住み、食べきれないほどの食材を冷蔵庫に蓄え、期限が切れたら惜しみなく捨て、何でも欲しいものがすぐに手に入り、物に不自由しない暮らしが贅沢でしょうか。

今の若い方たちは親たちに親の子供時代の話を聞いて、中年以上の方たちは自分の子供時代を思い出して欲しい。
近所のおばさん達がたくさん作ったお惣菜を分けてくれたり、畑でもぎたての野菜を分けてくれたり、母が服を縫ってくれたり、兄から姉から、お下がりの服をもらったり、親戚や近所からお下がりの服が回ってきたり・・・・。
鉛筆が小さくなったらホルダーを付けて使ったり、一つのおもちゃを何人もの子供たちが受け継いで遊んだり・・・・。
欲しい物を、あるものでやりくりしていたその頃の生活に、私は貧しさなんて感じていませんでした。
どうしても必要なものはもちろん買いましたが、なんでもすぐにポンと買うのではなく「必要なもの」を今よりきちんと吟味していませんでしたか?

今は何でもお手軽すぎます。
値段も種類も内容も、物がお手軽に手に入ってしまいます。
 
物があふれて有り余って、心を忘れていないでしょうか。
便利になった物と引き換えに、心のゆとりを失くしていないでしょうか。
小さな物から人の心まで、ちゃんと大切にすることが、自分の心を満たしてくれるという贅沢なのではないかなと思います。
一人でも多くの人たちが、こんな時代だからこそ、物よりも精神面で贅沢を感じて欲しいと思います。